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第一次ヴェーダ(集本:サンヒター)

『リグ・ヴェーダ』は神々への賛歌で、それが賛美する宗教は多神教である。それらは元々自然現象を神格化して擬人化したもので、次の様な神が挙げられる。 天神ディヤーヴァー(ギリシャ神話のゼウスと同根)、地神プリティヴィー、太陽神スーリヤ、暁紅神ウシャス、暴風神ルドラ(後のヒンドゥーのシヴァ)、風神ヴィーユ、火神アグニ、雷霆神インドラ(帝釈天)、創造主プラジャーパティ。

これら神々に対する賛歌の多くの内容は、現実的な願望(健康、繁栄、勝利など)の充足を願うもので、このような現実的な願望に対する呪法に加え、哲学的思索も垣間見える。それは上記のような多神論的な宗教観から『ヴェーダ』の詩人達は、これらの神々の根源に唯一の神『最高神』を探求した。この最高神への探求が最高原理:ブラフマンへの哲学的思索となったと考えられる。

第二次ヴェーダ(梵書:ブラーフマナ)

紀元前1000年から紀元前400年にかけて、インド・アーリア人は東方に進出し、それによって産業が活発するに従い、貧富の格差が広がりカースト制が厳密なものとなった。そのような社会背景のなかで『梵書:ブラーフマナ』は書かれた。この書には厳密な祭祀の手順とその解説が書かれているが、それは当時の人々が、厳密な祭祀の手順により神に働きかけることで願望が達成されると考えたからであろうか。そしてその祭祀を行なえるのは、カーストの頂点である祭祀執行者:バラモンだけであり、そのバラモンは次第に神を動かすことが出来る存在から、神々を支配することができる存在になった。彼らはいつしか神以上の権力を有し、バラモンを中心に社会秩序が形成されていく。

この『梵書』には二つの注目すべき特徴がある。一つは根源的な神に対する思索、二つは死後世界への思索である。前時代における神々は自然宗教的なもので、そこから全ての根源である創造主:プラジャーパティを思索した。しかしこの最高創主:プラジャーパティは後の『奥義書:ウパニシャッド』により、抽象的な非人格的最高原理であるブラフマンに取って代わられる。また二つ目の死後世界に関する思索では、現世の幸福は「祭祀によってもたらされる」と考えられたが、それに加えて死後世界(閻魔が支配する世界)の安寧も求めたからである。つまり死後世界で追善を行なわない者や、祭祀を怠った者は地獄にいくと考えられた。

第三次ヴェーダ(奥義書:ウパニシャッド)

第三次ヴェーダは、アーラヌヤカとウパニシャッドに分類される。『奥義書』は『梵書』の祭祀万能主義に対する反発から生じた、古代アーリア人の哲学的思索の集大成で、これは論理的な基礎付けはなく、神秘的な直感によって得られた思想である。この『奥義書』は200近い文献郡で、この書が成立した時期のインドは思想的に変動期で、バラモンを中心とする前時代の宗教とは異なり、仏教やジャイナ教が登場した時期であった。この時代は他国でもソクラテス、プラトン、孔子など、重要な思想家が誕生した時代で『枢機時代』とも呼ばれる。

ブラフマンアートマン

前時代の『梵書』では、全ての神々の根源的な存在である絶対神を思索したが、次世代の人々の関心は、そのような祭祀に関る人格的な神にではなく、『全てを統括する普遍不動の最高原理とは何か』のより抽象的な原理に対して向けられた。この思索によって到達したのが『呪術的な力:ブラフマン』である。これは世界の一元的原理であり大宇宙であると思索された。

これに対極して小宇宙として思索されたのが『自分の内にある自我:アートマン』で、これは「感覚を超越し客体化することの出来ない人間の本質」であると考えられた。そしてこの融合思索である『ブラフマンアートマン』は『奥義書』の両極同一の根本思想となったが、神秘的な直感によってもたらされて時代的に未熟である為に、論理的に基礎付けられていない。

しかし後にヴェーダーン学派のシャンカラを開祖とする、不ニ一元論学派によって理論的に基礎付けられる。その『ブラフマンアートマン』の根本原理は何かとの疑問に対し、二人の哲学者がアプローチしている。一人は外部世界の観察から『呪術的な力』に「有」でアプローチし、根本原理を探求した『ウッダーラカ・アールニ』、一人は自己の内観から『自分の内にある自我』に「無」からアプローチし、根本原理を探求した『ヤージュニャヴァルキヤ』である。

ウッダーラカ・アールニ

彼は実在論的な立場から『ブラフマンアートマン』を説明し、その呪術的な力を「有」と呼び一切をこれに還元させた。つまり無数の道具が作られる過程には、最初に形を為す「有」があり、この「有」がなければ、一切が生じないと考えた。それより「その有を知ることが一切を知ることであり、それこそ根本的な実在である」とする一元論を展開して、「有」は自らの中に火を創出し、火は自らの中に水を創出し、水は自らの中に食物を創出して火・水・食物の三元素が成立するに至ると述べている。

その「有」の源である火・水・食物は、摂取されると三様に分けられ、食物は便・肉・意、水は尿・血・気息、熱は骨・髄・言葉に変えられる。つまり肉や骨の実在するモノだけではなく、言葉や意思の形をなさないモノも、これらの三元素によって成立しているモノであると考え、『呪術的な力:ブラフマン』は、この「有」を本質として形を変えて作られたモノであるとした。そしてこの『呪術的な力:ブラフマン』の対極に位置する個を、『自分の内にある自我:アートマン』と位置付けて考察したのである。

ヤージュニャヴァルキヤ

ウッダーラカは実在論的、外的世界の観点から『ブラフマンアートマン』を説明したが、弟子のヤージュニャヴァルキヤは、唯心論的に自らの内面から説明した。彼は究極の主体として根本原理に『自分の内にある自我:アートマン』を探求して、この問いにアプローチした。

「それはこのアートマンがあらゆる意識に依存し、あらゆる行為がそれに基づいて行なわれる究極の主体であるから、それ自身を認識対象とすることはできない。そのために論理的に定義することができず“そうではない”と否定した時に表現できる存在であり、究極の内向きな『内制者』と呼ばれるモノである。そしてこのアートマンとブラフマンは同一であるため、この主体は真実智を内包し、大小の宇宙全体を内的に支えるモノとなるのである。

しかしこの意識に内在する『ブラフマンアートマン』を認識することは出来ないが、精神を鍛錬して極め高揚の頂点に達した時に、その存在を体験する事が可能である。そしてその精神状態になった時こそが、欲望や憂苦から離れることができる唯一の入り口である」と、内面からこのことについて考察したのである。

古代インド人の死生観

古代インドでは前述の様に自分も含めて、すべてが神のなせる業であるから、自分と自分以外とを隔てる境界がない。すなわち自分の身体と言う形がなくなろうとも、決して自分の内にあるアートマンは消滅することはなく、他の生物生命に形を変えて宿ることにより、自分は存在するという死生観が浸透する。後に釈尊がそれまでの思想を体系づけて説いた、輪廻思想の原形をうらづける賛歌として『リグ・ヴェーダ』には「人は亡くなれば一度天に昇りて神の裁きを受け、雨や露という形で地上に降臨して植物の中に生き、それを食した動物の中に生きる。」と述べられている。

この時生存中の行いの段階により、雨や露として降りる場所が決められる。すなわち「善行をした者は人間が食する田や畑の上に降り、悪行をした者は人間が住まない、人間に食されることのない地上に降り、又水蒸気になり天に昇るサイクルを繰り返すのであるから善行せよ(カルマ説)」と述べられている。この天地人の三才思想は後に仏教により完全な形で教義化されて中国へ伝播される。

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