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『新釈格知余論』朱丹渓/著、木田一歩/訳

今後出版予定の朱丹渓/著、木田一歩/訳『新釈格知余論』の中から、釈尊以後の思索、インド哲学の「空」の思想について一部抜粋してご紹介いたします。

General content

(2p) Preface
(3p) The first chapter 陰陽論

Ⅰ.大極論

  1. 古代インド哲学から釈尊までに至る空理論と零思想
    ①釈尊以前の思索、古代インド人の死生観、古代インドに於ける万物創造の最初の思考。
    ②釈尊以後の思索、インド哲学の「空」の思想について

  2. 道家哲学の「無」の思想について
    道教思想にみる無有論
    ①道家哲学の「無」の思想について『老子・荘子』経典解説
    ②東洋医学における「空論」について

  3. 西洋哲学に見る無有論、東洋思想との比較
    ①西洋哲学概論(小阪国継氏著書まとめ)
    ②古代西哲学各論
    ③西洋哲学で考える神と、東洋思想に見る神の違い
    1.古代ヨーロッパから中世における「神」について(白取春彦氏著書抜粋)
    2.東洋思想に見る神(意識と無意識の形而上学)
    3.キリスト教の神
    4.仏教の神
    5.日本の神

  4. 仏経、キリスト教、道教、儒教の死生感の比較
  5. 『養生訓』解説
  6. 水について
  7. 金元の四代医家について
     ①劉河間について
     ②張子和について
     ③李東垣について
     ④朱丹渓について

(92p) The second chapter 格致余論
(163p) The third chapter 原文
(189p) Reference book
(191p) Omake 

②釈尊以後の思索、インド哲学の「空」の思想について

輪廻・五火ニ道説

『奥義書』は死後世界に関する考察も行なわれている。それは生命と世界の生滅を円環の一元的モノとする考察に順じて、人の魂も円環の一元的なモノをなしていると考え『輪廻』と名付けた。その魂の円環は『五火説』という秘教では、五段階で表現されている。それによれば人は亡くなり火葬されると順番に①月に入る、②雨となる、③地上に降って食物となる、④精子になる、⑤母胎に入って再生するとある。またこれに加えて『ニ道説』と呼ばれる教義には、人の死後に二つの道があると考えられた。一つはブラフマンに至る神道、一つは五火説の順に輪廻再生する祖道である。

輪廻は『奥義書』によれば悪であると定義されている。それはこの世の苦しみや死を永遠に繰り返すからであるが、その負の輪廻連鎖が起こる理由については、人の行為、業によると述べられている。それはその人の何かの行いや業は、何かの結果、業果を生じさせる。つまり良い行いの善の業は、当然良い結果の善の業果をもたらし、悪い行いの悪の業は、悪い結果の悪の業果をもたらすことになる。これを『因果応報』と呼んだ。

そしてこの因果応報は人の生涯で完結することはなく、死後世界においても影響するので、その負の連鎖輪廻を断ち切ることが必要になる。つまりブラフマンを経て神道へ至るためには必ず『解脱』しなければならず、その解脱するための方法は、ブラフマンアートマンの本質を直観して悟り、両者を合一することにより達成されると書かれている。

すなわちヤージュニャヴァルキヤが述べるように『解脱』する為の具体的な手段は、内なる欲望を捨て精神を極限まで集中統一して高揚する方法が、最適で有効な手段と考えられ、後に釈尊が自らの実践により至る調息法のヨーガを行なうことが、この心境に到る最短と考察されて実用されたのである。この業と輪廻、解脱の教説は後のヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の根底を為して、インド思想・宗教・文化に多大な影響を与えている。

釈尊以後の思索

釈尊は紀元前450年頃、ヒマーラヤの麓の富裕な貴族より出家して仏教を教義づけた人物であり、彼の死後神格化され教団化されていく。仏教の教義の一つは、解脱論或いは苦(悪)から解放されるための実践的な方法論である。つまり彼以前の人々により形を成さない神により全ては支配される、と認識された無形神論を受けて、彼はよりその神に近ずく為の方法として、自ら実践して得た体験を基に、人々に中道の道を示し、煩悩により生じる苦より解脱するための知彗を推し進めることを説いた。そして精神と肉体である物質を分離し、精神の克服により物質的な肉体の苦より解放されることを主張したのである。

更に彼以前には認識されなかった対比論を人々に説くのだが、このことはその後形を成さない神形を成す神、無神と有神、無意識と意識、精神と肉体、生成と存在という具合に、比較の対象としての神を尊ぶ様になる。この様により高次な意識へと人々の思索が進むに従い、より内面を自己で管理コントロールする為の方法論を希求し、到達したのが調息法のヨーガである。釈尊はその教えの中で「すべての物質的な対象や多様性を除去することにより、無の領域に到達できるが、その無こそ考えることすらしなくなった者は、真の無意識の領域に入る、…

陽有余・陰不足論

人は天地の中で生かされている。そして天の陽気はわれわれに気を、地の陰気は血を与えてくれる。このことから常に気は有余であり、血は不足するということが言える。以下に事例を挙げて展開する。

天地は万物の創造主である。天は地に対して陽であり地の外を大きく包み込んでいる。また地は天に対して陰であり天の中に位置し大気を奉げて注3交流している。天には太陽と月とがあり、陽の太陽は陰の月の外を大きく動き、月は太陽の光を受けて満ち欠けをしながら輝いている。このように天における常に輝いている太陽と、満ち欠けをしながら動いている月を見ても陽有余陰不足が言える。次に人身でこれを考える。

人身の場合も先の天と地、太陽と月と同様陰気は常に不足している。陰気は出生後男女とも哺乳や飲食で養われ、男子は十六歳前後で陰精が漏れ、女子は十四歳前後で陰血が行り始める。男女ともこの年以降陽気との均衡がとれて成人となり父母となる。昔の人達は「男性では三十歳、女性では二十歳ぐらいの時期に婚姻するのが一番よい。」と述べているが、これはこの頃が人身において最も身体の陰気が充実し養生の道に適うからである。

『禮記』には「五十歳でまだ陰気を養うことができれば養生の道に沿った人である。」

『上古天真論』には「男性は六十四歳ごろに陰気が絶え、女性は四十九歳ごろに陰気が枯れる。」

『陰陽応象大論』には「男女とも四十歳ぐらいになれば陰気が自然に衰え始め、立ち座りや視聴言動に衰えが見え始める。」とそれぞれ書かれている。つまり人身には陰気が供給され活用される時期や期間があり、その三十年(男性は三十歳前後から六十四歳ごろまで、女性は二十歳前後から四十九歳前後)の間に陰気を活用(婚姻)することが非常に大事である。また男女ともそれぞれの年齢を超えると視聴言動に衰えが生じるのは身体の陰気が不足する為である。これらから人はどうしてその得がたき失いやすい陰気をその飽くなき情欲により簡単に漏らすことができるのであろうか、そのようなことを行っていると陰絶の現象が起きてしまうというのに…。

『太陰陽明論』には「陽は天の気外を主り陰は地の気内を主る。外邪の侵入時陽は更に実となり陰は更に虚となる。」

『方盛衰論』には「至陰は地を為し、至陽は天を為して交会交通している。その至陰が虚したり至陽が実したりすれば天気が絶して地気は不足する。」と書かれているように、天地の虚と実の変化によっても陽有余陰不足論を証明することができる。

  腎は閉蔵を主り、肝は疎泄を主る。肝腎の両臓はどちらも相火を内在し上焦の心にかかわっている。心は君火で事物(思ったり見たりすること)により変動しやすく、心の君火が動けばそれに伴い相火も動く。つまり上焦の君火が事物に感じて動けば、下焦の陰精、相火は上焦と交流均衡する為に連動して動くので相火が旺気するのである。このように君火と相火は直接交会することをしなくても、間接的に連動して疎泄する。これらのことを踏まえて昔の賢人は事物に感じやすく動きやすい心の修養を説いている。これにより上焦君火の変動と下焦相火の旺気による陰精の毀損を防ぐことができるからである。

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