太陽病の大意
『尚論』論 王叔和(3世紀)が仲景の『傷寒論』を編集した時に、痙、湿、喝の証を第一編にし、太陽病を第二編に編集した。痙、湿、喝の証は太陽病に見られるもので此れを別論にすること自体、彼の十分な研究心がないことの証明である。太陽病には合病、併病、温病、壊病、過経不解病等種々の症が渾然と書かれ、少陽病の諸症状は太陽病や他の編でも挿入されている。また脈状についても同様であるので、初学者が『傷寒論』を応用して活用することは大変困難である。
宋の時代に林億、成無已と言った人が、傷寒証の脈証及び喝、痙、湿病について編を書き、更に太陽病を前、中、後編に分けて書いた。前編には桂枝、麻黄湯証を、中編には青龍湯証及び汗下証を、後編には結胸、痞証を書いたが、これらの人が根拠もなく漠然と分類したために王叔和同様『傷寒論』を理解しにくくしてしまったのである。ここでは詳しくは述べないが、つまり万事においてこのように分類しているために応用されにくい書物にしてしまったのである。
そもそも太陽病は表病である。表には衛気と営気があるが、それには衛気が受病した場合と、営気が受病した場合、営気と衛気が同時に傷害される場合の三法があり、病伝がそれぞれ異なるものである。このことを張仲景は臨床の中より発見し、基本補剤に桂枝湯、麻黄湯、大青龍湯を立て治療したのであるから、これを基本にして前編、中編、後編と分ければ傷寒論が生き、応用されやすくなるものなのである。
『訳者』注 『傷寒論』は張仲景によって著されて以来、王叔和の編纂を受け林億、成無已等の人たちにより編集されている。現在伝わる傷寒論の分類はこの人たちの編纂によるものである。しかしこの流れとは別に孫思邈の『千金方』を読み方有執が分類したものを『尚論』は継承している。これ以後『後条弁』に受け継がれ、名古屋玄医や内藤奇哲に影響を与えていく。
『解惑論』論 太陽病とは表皮が邪気を受けて病んだものである。およそ邪気が人体にあたるときは先ず太陽経に留まることが多い。即ち「太陽の病とは、脈浮で項頚が強ばり痛んで悪寒がするものである」つまり何病であろうとこれらの症状を現す場合は全て太陽病である。
『条弁』論 太陽は膀胱経であり、その経絡は目の内覗より起こり額に上がり脳を絡して項に出る。そして六経の主を為す経絡である。皮膚を主り営衛の両気を統べる。故に初めて受病した時には太陽経が病むのである。表は即ち皮膚であるから太陽病は営衛が憂えた病である。これらのことから寸尺共に浮いている場合は、病が太陽にあることがわかる。
『後条弁』論 太陽病は皮膚に邪を受けて病邪が腠理や営衛の間にあり、まだ臓腑に及んでいない状態を言う。脈が浮であるのは、太陽は表を主っており、腑は陽に属し、表に属すからである。
『正義』論 太陽表証は汗吐下の各法を行った後、一方で裏証にその影響が及び発現する症状を言う。そもそも太陽は病名であり、経絡の部位を現すものではないので、太陽病とは言わず、太陽経病と言うのである。そして太陽病は風寒の邪が表に初めて客したが、追い返せない場合に発生する症状を言う。