② 釈尊以後の思索、インド哲学の「空」の思想について
輪廻・五火ニ道説
『奥義書』は死後世界に関する考察も行なわれている。それは生命と世界の生滅を円環の一元的なモノとする考察に順じて、人の魂も円環の一元的なモノをなしていると考え『輪廻』と名付けた。その魂の円環は『五火説』という秘教では、五段階で表現されている。それによれば人は亡くなり火葬されると順番に①月に入る、②雨となる、③地上に降って食物となる、④精子になる、⑤母胎に入って再生するとある。またこれに加えて『ニ道説』と呼ばれる教義には、人の死後に二つの道があると考えられた。一つはブラフマンに至る神道、一つは五火説の順に輪廻再生する祖道である。
輪廻は『奥義書』によれば悪であると定義されている。それはこの世の苦しみや死を永遠に繰り返すからであるが、その負の輪廻連鎖が起こる理由については、人の行為、業によると述べられている。それはその人の何かの行いや業は、何かの結果、業果を生じさせる。つまり良い行いの善の業は、当然良い結果の善の業果をもたらし、悪い行いの悪の業は、悪い結果の悪の業果をもたらすことになる。これを『因果応報』と呼んだ。そしてこの因果応報は人の生涯で完結することはなく、死後世界においても影響するので、その負の連鎖輪廻を断ち切ることが必要になる。
つまりブラフマンを経て神道へ至るためには必ず『解脱』しなければならず、その解脱するための方法は、ブラフマンアートマンの本質を直観して悟り、両者を合一することにより達成されると書かれている。すなわちヤージュニャヴァルキヤが述べるように『解脱』する為の具体的な手段は、内なる欲望を捨て精神を極限まで集中統一して高揚する方法が、最適で有効な手段と考えられ、後に釈尊が自らの実践により至る調息法のヨーガを行なうことが、この心境に到る最短と考察されて実用されたのである。この業と輪廻、解脱の教説は後のヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の根底を為して、インド思想・宗教・文化に多大な影響を与えている。
釈尊以後の思索
釈尊は紀元前450年頃、ヒマーラヤの麓の富裕な貴族より出家して仏教を教義づけた人物であり、彼の死後神格化され教団化されていく。仏教の教義の一つは、解脱論或いは苦(悪)から解放されるための実践的な方法論である。つまり彼以前の人々により形を成さない神により全ては支配される、と認識された無形神論を受けて、彼はよりその神に近ずく為の方法として、自ら実践して得た体験を基に、人々に中道の道を示し、煩悩により生じる苦より解脱するための知彗を推し進めることを説いた。そして精神と肉体である物質を分離し、精神の克服により物質的な肉体の苦より解放されることを主張したのである。更に彼以前には認識されなかった対比論を人々に説くのだが、このことはその後形を成さない神と形を成す神、無神と有神、無意識と意識、精神と肉体、生成と存在という具合に、比較の対象としての神を尊ぶ様になる。この様により高次な意識へと人々の思索が進むに従い、より内面を自己で管理コントロールする為の方法論を希求し、到達したのが調息法のヨーガである。釈尊はその教えの中で「すべての物質的な対象や多様性を除去することにより、無の領域に到達できるが、その無こそ考えることすらしなくなった者は、真の無意識の領域に入る、その領域こそ人々がすべての苦より脱し、神が住むとされる涅槃である。」と述べ多くの経典を残した。
空の概念
釈尊は自らの実践により涅槃と言う空の領域を体験し存在を確信した。そしてこの領域は身体の内外に存在して、日常的に通常起こり得るさまざまな現象はすべてこの空の領域からの投射である、との思索の頂点に到る。すなわち人が見たり聞いたり感じたりする種々の体感や、様々なモノの形態は全てこの領域からの投射なのである、よってその人やその時点での空の領域の状況に応じ、モノの色や形態、体感は異なっていく。このことから釈尊は、身体の内外に存在する空の領域の質を同じにし、等しく涅槃の存在を体感することが出来るように、智恵という武器で煩悩が災いして生じる苦より解脱する方法を説いたのである。
人間にはさまざまな感覚器が存在するが、果たして同じモノを見た場合一体何人が同じ感覚器でその現象を捉えているだろうか。このことは例えば「青いモノを見た」場合、その青色を全ての人が同じ様に認識していないことを説明するものである。では何故同様に青いモノは万人が共通して認識することが出来ないのであろうか、釈尊はその理由に人の空の領域状況に於ける差異で説明している。このことを理解するのに『大智度論』で「牛と羊の違いは角が有るか無いかと言うことであるが、しかし四足で歩いて草を食べる家畜ということにおいては牛と羊に違いはない」と鳩羅什が述べているように、モノの存在意義は、そのモノが空の領域にどのように投射するかにかかっている。言い換えると感覚器を通して投射された物質をどのように認識するか、或いは空の領域に於いてどのように認識したかによって、モノを捉える角度が異なるのである。
例題で考察する。ある人を認識する時に過去にその人とトラブルがあれば、それは一つの先入観になり「彼は嫌いである」とする認識がすでに出来上がっている。それはそのまま彼への行動となり、嫌な事を自分で言ったり、行動を取るようになるだろう。それは自分の空の領域に於いてすでに「嫌いな人」という意識が形づけられているからに他ならない。このことはある人と過去に於いてトラブルがない人は、空の領域に於いて「嫌いな人」という意識がないのであるから、嫌な事を言うことも行動を取ることもないのである。すなわち自分の意思で行なっていることでさえも、空の領域の支配によって行動させられているのであるから、自然界で起こる出来事等は、到底人の意思が反映されるものではない。これらは全て空の領域の意思によるところなのである。そしてその領域を支配するものは、形を成さない神である。このようにして釈尊はこの空の領域を確信して、その領域がいつも透明で、常に純粋に物事を映し得ることを人々に、仏教として説いたのである。このように空は形を成さない神よりその概念を発し、釈尊により形を成す神へと導き出され、後に偶像として広く人々に意識づけされるのであるが、その実態は形無き神の意思により左右されている。